ペンドの思索

無意味な文字の羅列

いじりとお笑い

批判のない世界というのは平和だろうが、ひどく詰まらないのかも知れない。お花畑で蝶よ花よと愛でるのが好きな人もいる。その一方でカブトムシを捕まえて、戦わせるのが好きな人もいる。笑われるということ、いじられるということ、いじめられるということをきちんと理解して、どこまで踏み込んでいいのかを理解している人は嫌いじゃない。話せば分かる人達だから。ブスというのは暴言だよ。でも、ギリギリのところで彼らは判断していると思う。太田光については、田中裕二とセットだと思う。ボケとツッコミでセット。もちろん太田光一人でも発言してしまうこともある。そういう時は、批判してもいい。でも、2人でいる時は、だいたい田中裕二が突っ込みを入れている。

太田光は「お笑いは、いじめである。自分がやっていることは人を殺しかねない」と発言しいる。その自覚があるのなら、多少の暴言は許されるのではないかと思う。なぜなら、傷ついたと言えば、謝ってくれると思うから。とは言え、アナ雪を見て歌っている人が傷付いたから謝ってと言っても謝らないかも知れないけれど。伊集院光はラジオを時々聞いている。彼はコンプレックスをずっと抱いている。NHKフランケンシュタインの特集の番組に出演したさい容姿が醜いせいで、人々から迫害される怪物に心情移入したと語っている。ラジオを聞いていれば、彼が自分の笑いが誰かを傷つけないように

言葉を選んでいるのが伺える。例えば、オバマ大統領の隣でデタラメな手話をした人の事件があった。世間では笑い話になっている。僕も面白いと思った。しかし、彼はそのニュースを取り上げる番組に出演してその彼が他のイベントでも手話をしていた、という話を聞いて耳の不自由な人たちの声が政治に届いていない、ということに気が付いてその後の収録中も一人だけ気が沈んでいたらしい。彼らは多数派から距離を取っているように思える。これは良く分かる。他人と違う事をしたがるある種の中二病だと思う。笑って許すべきなんじゃないだろうか。僕の気持ちが贔屓であることは自覚している。TV番組はいじめじゃない。仕事。いじめは、無償。ボランティア。全然違う。構造は一緒だけど。ただで仕事頼まれたら嫌でしょ。そういうことなのです。最近、ずっと考えている。僕がコミュ障を打開するには「いじり」を受け入れるしかないのではないか、と。僕は他人より劣っている。被害妄想ならいいのだが、実際に劣っている。早稲田なのに低学歴だとか、何人も付き合ったのにモテないとかそんなのではない。実際に劣っている。何かの障害なら、それこそ言い訳もできよう。診断を受けた訳ではないが、アスペルガーではないしADHDでもない。ただの無能。いや、現時点で能力を活かせていない、という言うべきか。そんな僕が社会に出て、人々に受け入れられるにはいじられるしかないように思う。それぐらいに世間は「いじり」で満ちていると思う。ブログでいくら「いじり」を批判しても世間は変わらない。処世術として、「いじり」を受け入れるしかないと思う。僕がいじられることも、誰かをいじることも。生きていくにはやむを得ない。受け入れないといけないのかもしれない。あるいは、こういう人達を受け入れないといけないのかもしれない。いじられを回避する技術というのも、身に付けなければならない。人生は長く暗い。じめじめとして、薄らぼんやりとした世界が広がっている。希望は、ないとはいえない、そんな世界。絶望でもないけれども、希望も見えない。この国には何でもある。だが、希望だけがない。

 

リンクを削除したので、ところどころ意味不明な箇所があると思う。いじりをどこまで許容するかという問題は、いまだに私の中で解決していない問題である。最近、さんま御殿を見たけど、面白かった。あれはいじりで成り立つ番組である。というか明石家さんまという芸風にいじりは不可欠だ。彼の番組を見ていると、その空気の中ではそれが常識で笑わせることが正義だから、許されている節がある。しかし、そうじゃない世界では、笑い=侮辱と受け取られる場合もある。それを傷ついた方が悪いと言っていいのだろうか。笑っていいのはお互いに了承しあった関係性の中だけだと思う。見ず知らずの他人を笑えば、やはり衝突は避けられない。