ペンドの思索

無意味な文字の羅列

社会に認められるための個性についての再考

個性について考えてみました。僕には趣味がありません。ギターとか庭いじりとかしてるけど、あんまり楽しくありません。ゲームは後ろめたくてあんまりしてないです。ちょっとしてるソシャゲもやめました。いったい誰に気を使っているんだろう。趣味なんて自由にすればいいのに。ということは、このブログでも書いてきました。でも、やはり人に言えない趣味はあります。職場で言える趣味、言えない趣味があると思います。個性ってなんだろうと考えました。どこまでが許される個性で、どこからが許されない個性なのでしょう。どこから我がままになるのでしょう。人を殺すのは個性じゃないです。個性かも知れないけど、認められません。ピアノを弾くのは認めらる個性です。やっぱり法律なんだとおもいます。常識とかマナーとかあやふやだし人によって違います。結局法律さえ守ればいいのかも知れません。コミュニケーションは大事でも一人になることも別に悪いことじゃないと思います。別に一人でいてもいいんだと思います。僕はもっと話し方を勉強して色んな人と仲良くなりたいと思います。でも、それと同時に仲良くしなくてはいけないという強迫観念も芽生えてきます。だから他人から理解されにくい趣味を捨てようとしています。(というか無趣味なんですけど。)大衆的で誰もが知っている趣味でないといけないと思ってしまいます。本当はそんなのに興味ないのに無理やり合わせようとしてしまいます。もちろん、他人を理解するために新しいことに挑戦することも時には大事だと思います。でも、わざわざ自分の趣味を捨てる必要もないと思います。時間は十分にあるのだから今までの趣味も大事にして新しい趣味もつくればいいじゃないかとは思います。いつだってそうだったいきなり完璧を目指すから挫折してきました。もっと長い時間がかかると思って、もっとのんびり生きていけばいいのです。逆に相手が僕の趣味を好きになる可能性だってあるのですから。結局、慣れなんだと思います。慣れるしかないと思います。いきなり難しいことをやれば挫折しますが、少しずつ徐々に慣らしていけば慣れると思います。性格も変わると思います。一朝一夕では変わらないと思いますが、10年かければ性格は変わると思います。そこで焦らないことが重要です。10年後、自分はこんな生活を送りたいと思うことが需要です。本当は自分の個性を社会に合わせる必要なんてないと思います。それはまるでベッドに合わせて体を切ってしまう、あるいは体を引き伸ばすような苦痛を伴います。嫌われる勇気かアドラー心理学入門にそんな記述があったので正確に引用しようと思いましたが、どこに書いてあったか忘れてしまいました。ハマっていた時は何度も読み返しましたが、ここ最近は読んでいないので、どこに書いてあったかすっかり忘れてしまいました。本は定期的に読み直さないと忘れてしまいますね。

 

自らの思想だけを友とする。最近はそのように考えている。もちろん、それを実践するのは難しい。自分らしく生きよう、ありのままで生きよう、好きなことで生きていく、いろんな言葉が使われた。しかし、そういう生き方は常に孤独と隣り合わせなのだ。そして孤独に耐えられるものは、多くない。故に我慢しながら生きている。自由とは孤独であり、地獄とは他者である。自分を好きになると言っても、相対化された自分では決して好きなれない。社会に照らし合わせて、そのうえで好きか嫌いかを決めてはいけない。頭が悪くても、足が遅くても、それは社会相対的な自分なのだ。「私という世界」の中で自分を好きになるのに、異世界の概念を持ち込む必要はない。他者を排除した自分だけの世界を持つことが必要になるのだと思う。それは決して社会規則を無視しても良いということではない。疲れたとき、疑問に思ったとき、勇気を奮い立たせるときに、自分が本来いた世界を思い出し、その世界に変えることで精神を安定させるべきだと思う。我々人間は、一人に一つ、自分だけの世界を持っていてそれは他の誰とも分かち合うことができない。しかしそれは孤独ではない。その世界そのものが友なのだから。