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ペンドラゴンの思索

市井の哲学、生きることは考えること

貧乏は一人では脱出できない。でも仲間がいれば、きっと立ち上がれる。

私は何のためにブログを書いてきたのだろうか。私はこれから、何のためにブログを書けばいいのだろうか。いったい、誰の為に書けばいいのだろうか?自分のため?それとも・・・。ブログを始めて1年半が立つ。こんなに長く続けられるとは思わなかった。はてなスターという承認欲求を満たす装置があるからだろう。アクセス数が100あるより、スターが1個あった方がいいのだ。

 

もちろんブログで収入を得ようとするなら、アクセス数の方が大事だ。アクセス数こそ全てだ。お金は欲しい。収益になるのならそれに越したことはない。1日1万アクセスあるなら、スターが1つも付かなくてもいいとさえ思う。しかし、それは現実ではない。私にはそのための努力は出来ない。それは苦痛でしかない。興味のない記事は書けない。

 

承認欲求とは何だろうか。アドラー心理学ではコテンパに否定されていたけれど、誰にも見て貰えず、誰にも気づいて貰えないのは悲しいことだ。アドラー心理学でも、感謝の言葉は勇気づけになると言っている。はてなスターは承認欲求を満たしているのか、それとも勇気づけなのか。それは、受け手の問題だと思う。スターやブコメに依存しないことが重要である。

 

なくても困らないが、あれば嬉しい。そういう考えを維持できればいい。しかし、だんだんと依存するようになってしまう。今日は星が少ない、今日はもっと減った。今日はブコメがない。今日は今日は今日は・・・。そうなったら、ブログを辞めるか、スターやブコメ非表示にした方がいい。

 

読み手を想像して書く時が来たのかもしれない。一体私のブログを読む人間がどこにいるのかと疑問に思うが、それでもスターをくれたりブクマしてくれる人がいるのは、非常に感謝すべきことだと思う。しかし、相手の顔色を伺うような記事は書きたくない。○○さんはあの趣味があるから、それに関連した記事を書こう。そんなの楽しくない。所詮はブログだ。自分の好きなことを書きたい。

 

想定すべき読者は誰か。多くの人に読まれたければ、そういう努力があるだろう。ブコメを貰う努力をして、ホットエントリーに入る努力をして、SNSで拡散してもらう努力をすればいいだろう。でも、私はそれもしたくはない。結局、大衆受けする記事を書かなければならなくなる。

 

私が書くべき相手は、きっとかつての自分なのだろう。5年前の自分、10年前の自分に語りかけるつもりで書く段階に来たのだと思う。まだ見ぬ他人を想像することはできない。そんな、かつての自分が他にもいるのかどうかは分からない。分からないけれども、いると信じて書いていこうと思う。

 

Dear Pendragon.

1年前ぐらいの記事は、dear○○を付けて書いていた。いつのまにか面倒になってやめたけれども。このブログ自体に名前を付けて手紙を書くように意識していた。内容は全然手紙でもなかったけれど。親愛なるアップルパイへ、みたいな。あるいはアンネの日記みたいに。

 

自分と意見の異なる人を説得することはできない。私も説得されたくないし。別々の世界で無関係に生きるのが、もっともベストな選択肢だと思う。それでも生きていれば、いつか関わり合いになるときは来る。そういう時は、なるべく穏やかな方法で解決したいと思う。そういう時のためにも、相手のことを知る必要はあると思う。理解はできないだろうけれども。

 

私の決意は以上。あとは、ホッテントリの記事について考えます。

 

rootport.hateblo.jp

 

この記事には書かれていないが、以前、図書館は必要かどうかを考えたことがあった。図書館があれば誰でも勉強できるという意見があるが、考えが甘いと思う。人は一人では努力できない。だからライザップという会社がある。学校というのも、一人では努力ができないから、存在しているともいえる。監視、というとマイナスのイメージがあるが、それで努力できることもある。

 

貧困層を救うのは何もお金を出すだけではない。自助努力できる仕組みを作ることが必要だと思う。他人に救われたのでは、次も助けてもらわなければならなくなる。自分で生きる力を身に付けなければならない。そういう仕組みを作るのにもお金はかかるだろう。時間もかかるし、自業自得と思って切り捨てたい人がいるのも分かる。

 

でも、僕は困っている人は救われるべきだと思う。それは、ただ単にそうであって欲しいからでしかない。そう思わない人を説得はできない。これは感情の問題であって、理屈じゃないから。ここからは自説の主張になるのだが、いや、最初から自説の主張なのだけれども、民間の行政を作るべきだと思っている。

 

棲み分け。高校の生物の授業でこの単語を知った。感動した。嫌いな人とは棲み分ければいいんだ。日本に生まれたというだけで日本人と一括りにするのは窮屈だと思うし、地方分権をすすめて、もっと地域の独自性を出した方がいいと思っている。あるいは、世界中の好きな地域にすめるようになれば、最高だと思う。そのためにも戦争や紛争やテロはなくなったほうがいい。

 

これが棲み分け理論の極致。勝手に住まれる方は困るかも知れない。なので世界中に住めるようになるには、あと数百年はかかると思う。当面は、というか僕の生きている間は、日本国内で、あるいは欧米なら可能な地域もあると思うので、その範囲内で自由に住めるようにしたいと思う。もちろん、現時点で引っ越しは自由だし、海外で生活することも可能だ。でも、それをもっと簡単にしたいと思う。

 

宗教というのは、常々参考になる部分があるのではないかと思っている。引っ越ししても、引っ越し先に宗教があって、そこを頼りにすればいいのだから。そうは思うものの、以前、創価学会に誘われて入ったものの、まったく合わず3日で逃げるように辞めた。ちょうど引っ越しするタイミングだったので、うまく辞めることができた。宗教は、試しに入ってみるものではない。

 

駆け込み寺のようなものを作りたい。とはいえ、宗教は好きじゃない。オカルトパワーで念じれば不幸はなくなります、なんて何の解決策にもならない。困ったときに相談できる組織が必要だと思う。専門家である必要はない。専門家に繋ぐ人が必要。貧乏でどうしようもない、誰かに相談したいけど、誰に相談すればいいのか分からない。そういう時に、相談できる組織があればいいと思う。

 

そこで弁護士なり、役所なりを紹介して、一緒についていく。体調が悪い時は、一緒に病院に行く。できれば話も聞いて一緒に対策を練る。家族のように深く入り込む人が必要だと思う。これはボランティアでは限界があるものの、ビジネスとしてどう成り立たせればいいのか分からない。

 

民間の行政を作る - ペンドラゴンの思索

 

先日、こんな記事を書いた。住民がお金を出し合って株を買い、その会社で働いて、その会社で買い物をする。飲食店があって、アパレルがあって、雑貨屋があって、とにかく色々なお店を作って、そこで経済が回るようにする。そういう会社の福利厚生として、コンシェルジュのような、何でも屋のような、サービスは出来ないものか。

 

ふと、記事を読み直してみると、不吉な言葉を書いていた。死にません。まだ死なない。10年先が見通せないので、死ぬかもと書いたけれども、切迫した緊急事態ではない。ただ、将来が見通せないだけ。まぁ、それは普通の人よりも、少しだけ死に近いような気がして、死ぬかもと書いた。ちょっとナーバスになってたのかも知れない。

 

事業計画があって、その後で、雇用や福利厚生について考えるのではなく、先に雇用を考え、福利厚生を考えている。ビジネスとしては最悪かもしれない。でも、これは行政なのだ。儲けるために会社を作るのではなく、生きるために会社を作るのだ。

 

国家とはもとより、そういうものなのかも知れない。住民自治が僕の理想。民間の行政という言葉を使ったが、以前は「国家の上に国家を作る」という言葉を使っていた。独裁国家ではこの方法は使えないが、民主主義国の資本主義国なら、それが可能になる。企業城下町。というか、城そのもの。城主は株主。そして株主は住民。

 

もちろん、考えの異なる人もいるだろう。だけれども、根本的に考えが違う人は、入ってこないと思う。人間関係を円滑にするために、人間関係を調整する仕事も必要だと思う。必ずしも上司である必要はない。普段は別の仕事をしながら、人間関係を観察して、よくない兆候があれば、仲裁に入る。そういう役割を作りたい。これは、まだ考え中。(というか、全部考え中だけど)

 

この考えを達成するために必要なこと。『同じ考えの人を見つけて、参加する』これは非常に魅力的だ。しかし、そんな考えの人に出会ったことはない。どうやって探せばいいのか分からない。なので、とりあえずは僕がゼロから作ろうと思う。作っている最中に出会う可能性はある。その時は、その人に任せてしまおうと思う。

 

次に『人徳を身に着ける』。不可能にも等しい。僕が人に好かれるようになるとは思えないが、とにかく信頼して貰わないといけない。必ずしも出資や事業の手伝いをする人を集める必要はない。最初は応援してくれるだけで十分だと思う。計画の実行段階に入れば、手伝ってくれる人が必要になるだろうけど、その時までには、数人は見つけておきたい。

 

基本的に僕が何かを成し遂げる、というよりみんなの力を合わせて作り上げたいと思う。僕にそんな能力はないし、この会社の理念自体が共同自治にあるのだから、トップダウンのワンマン社長は不要だと思う。成功するかどうかは分からない。カリスマ社長がいたほうが、さっさと会社は作れるのだろうけど。

 

坂爪さんという人がいる。どうやって生活しているのか分からないが、いろんな人から金銭的、物質的な提供を受けながら、ブログを書いている。amazonの欲しい物リストで贈り物が届く人もいる。僕にはにわかに信じられない。それに、タダで貰うのには抵抗がある。ボランティアは続かない、と思っているからだ。

 

お金を払うのであれば、その人には利益がないといけない。株というのはちょうど良いと思う。あるいはクラウドファウンディングも考えは好きだ。群衆資金調達と訳されるらしい。「寄付型」「購入型」「金融型」があるらしい。寄付はNG。長続きしない。

 

寄付は趣味でしてくれる人はいるかもしれない。最初の1回はしてくれるかもしれない。でも広がらないと思う。そもそもボランティアにしたくないから、会社を設立するのに、その手段が寄付では意味がない。寄付やボランティアはブラック企業に繋がるので、なるべく避けたい。(こんなことを言うと寄付やボランティアをしている人に怒られる。ごめんね。)

 

長くなった。自分でも、なんでこんなことを書いたのか、書いている途中ですっかり忘れてしまっていた。ホッテントリの記事に言及するためだった。

貧困は自己責任ではなく、政府が責任を持って対処すべき──。マクロの視点では、この発想は完全に正しい。私がこの記事で問題にしたいのは、ミクロの視点だ。個人レベルの努力で、貧しさを遠ざけることはできるかどうか、だ。

個人では脱出不可能だと思う。自分一人では抜け出せない。でも、誰かが背中を押してくれたら、それだけで抜け出せると思う。背中を押すのが、どの程度なのかは分からないけれど、1度きりじゃなく継続的な支援をすれば、きっと抜け出せる。

 

税金を使うと怒られる。自己責任論者に怒られる。だから税金は使いたくない。でも困っている人は助けたい。だから会社を作ろうと思う。NPOにして補助金を貰うという方法はNGだ。完全に政府から経済的に独立する。そうすることが、僕の思いつく限りでの弱者救済の方法だ。

 

最後に。この方法では全ての困窮者を救えない。足りない部分は、行政に丸投げする。どうしても目をつぶらないといけない部分はある。すべての人間を救うことはできない。これはずっと悩んできたけれど、どうしようもない。行政であっても、すべての人を救うことはできない。どうしても零れ落ちる人が出てくる。そう思うと、苦しくなる。

 

その先は、やはり宗教しかないと思う。何もできない時に、出来ることは祈るぐらいだと思う。

 

やりたいことがないヤツは社会起業家になれ

やりたいことがないヤツは社会起業家になれ

 

 

この本も読んだ。NPOとか社会起業という概念は目から鱗だった。その後、ホリエモンの発言も見て色々考えるところはあったけど、この本を読んで良かったと思う。僕はね。この本も売ってしまったのが悔やまれる。必要になったら買えばいいと思ったけど、それができるのは金に余裕がある人だけじゃん。

 

 あぁ、最後に言い忘れたことを書いておく。僕は人見知りで無口のコミュ障なので、まずはそこから直さないといけない。大言壮語を書いているけど、実現するのかどうか、本当は自信ないのです。でも、書いていると楽しいので書いてます。