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ペンドラゴンの思索

市井の哲学、生きることは考えること

私憤と公憤

私憤と公憤について。

今まで怒りは悪いことだと思っていた。

けど、2つを分けることで私憤については

無くすべきだけど

公憤については抑える必要はないと思うようになった。

 

私憤と公憤はwikipediaにも書かれている。

怒り - Wikipedia

書籍もあるようだ。

wikipediaにも書かれている。

いつか読んでみよう。

 

検索すると「私憤を公憤にすり替える」という使い方もされている。

批判されている。

自分の怒りが全体の怒りであるように見せかけているらしい。

フェミニストへの非難として使われている。

 

ここで私憤と公憤の定義をしてみたい。

し‐ふん【私憤】

個人的な事柄でのいきどおり。個人としていだく怒り。「私憤を抱く」

こう‐ふん【公憤】

社会の悪に対して、自分の利害をこえて感じる憤り。「公憤を覚える」

デジタル大辞泉

 

これではよく分からない。

きっかけは私憤であったけど

徐々に公憤に変わることもあると思う。

逆に、自分とまったく関係のないことに憤りを感じるのは難しい。

どこかで共感するからこそ、怒るのだ。

 

僕は論理的かどうかが私憤か公憤かを分けるポイントだと思う。

自分が嫌だと感じるのは私憤で

それを他人に説明できるように論理的に話せるようになれば

それは公憤だと思う。

 

例えば親子喧嘩であっても

糞親死ね、は私憤だと思う。

でもなぜ喧嘩したのか、どうやったら解決できるかを考えれば

それは公憤になるのではないか。

 

親子喧嘩が社会の悪かと言われれば微妙だけど

親子喧嘩で悩んでいる人もいると思う。

そういう人のために自分の解決方法を論理的に解説できるなら

それは公憤なのではないだろうか。

 

論理的に考えるときでも怒りは感じると思う。

論破という言葉があるぐらいだから、議論と感情は一緒になることもある。

ただ議論でも人格攻撃してしまう場合は、ただの私憤である。

闘うべきは相手の論理であって、相手の人格ではない。

 

ネット上の議論の勝利は相手が疲れて反論しなくなるまで

書き込み続けることを言う。

論破とは相手の論理の矛盾を指摘するだけで

どれだけ道徳的に反していても

論理的に正しければ論破はできない。

 

政治の世界では最終的には両者のすり合わせによって

落としどころを見極める必要がある。

 

私憤と公憤について書いていたはずが、

いつの間にか議論の方法に変わっている。不思議。

 

ホットエントリー憎悪という記事を以前書いたけど

むかつく!で終わらせずに、なぜ怒りを感じるのか

どうしたら問題は解決するのかと考察することも大事なのかも知れない。

 

このブログは楽しいことについてより

楽しくないことについて書かれている

社会批判が割と多い。

たぶんこれが僕の性格なんだと思う。

楽しいことだけを考えようとか

自己啓発やスピリチュアルでは言われてるけど

どうやらそれは僕にはあっていない。

facebookで幸せをシェアすることに魅力を感じない。

 

怒りは悪いことだと思っていつも押し込めようとしていた。

けど、怒りには活動のエネルギーがあると思う。

実際に僕は怒りによってこのブログを書いている。

怒ることは悪いことだと思っていたけれど

私憤と公憤を分けることによって

少し楽に生きられるような気がする。

無理に自分を押し込めなくてもいいのかなぁと思えるようになった。

 

もちろん、怒りを表現するわけだから

それを読んだ人が僕に向かって反論してくると思う。

その反論が公憤であれば取り扱うけど

私憤だと判断したら、無視します。

これは私憤じゃなくて公憤だ!って言われそうだけど。

どこからが私憤でどこからが公憤かは

これからまた考えていきたいと思います。

 

関連過去記事

ホットエントリーへの憎悪

 

私憤から公憤へ―社会問題としてのワクチン禍 (岩波新書)

 

私憤から公憤への軌跡に学ぶ―森永ひ素ミルク中毒事件に見る公衆衛生の原点

 

 

あと、どうしても言いたいことがある。

 

だっふんだ~

 

お後がよろしいようで(笑)