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ペンドラゴンの思索

市井の哲学、生きることは考えること

差別についての考察

いつも1000文字を目標に記事を書いているが、今回は書けそうもない。

後日、追記する形になると思う。

(とは言いつつ結局、いつもの倍の2400文字書いてしまいました。)

(にも関わらず結論は出ていません。)

今回は差別問題について考えてみたい。

 

先日、pocketを見ていた。

omocoro.jp

このページを保存していた。

はてブでもコメントしていた。

 

読んでみたけど、面白い。

でもはてブは批判コメントばかりだった。

なんでこの記事が面白くないのか分からない。

努力を一切認めず、容姿だけを見ているのが気に食わないそうだ。

 

長らく2chにいた俺にはそっちの感覚の方が分からない。

容姿こそが全てだと、それが共通認識だった。

 

b.hatena.ne.jp

(追記 元記事が非公開になってしまったので、ブックマークページへのリンクに差し替えました。)

この記事は割と肯定のコメントが多い。

論理矛盾を指摘するコメントが多いがそこは今回は関係ないので無視する。

この記事は著者をキモイと呼ぶ人は少ないように思える。

全部は見てないので詳細は分からない。パッと見。

 

この2つの記事は別々のテーマで書かれているけれども

同じ土台にあると思う。

あるいは重なりあっている部分があると思う。

両者には妬みが含まれていると思う。

美人の記事は、著者がイケメンだったらインタビューする意味がない。

不細工だから容姿が良い人の気持ちをインタビューしているのだ。

もちろん、不細工でも人間は見た目じゃないと思っている人もいるだろう。

しかし、こんなインタビューしている人が見た目じゃないと思っている訳がない。

人間は容姿だと思っていて、自分を不細工だと認識していて

そこで劣等感を抱かずにいられようか。

ということで、美人の記事を書いた人も劣等感を持っていると推測します。

後者の漫画の方は劣等感が主題なので、言うまでもなく。

 

後者の方は他人の幸せという大きな括りだったが

前者は容姿に限定している。

どちらも自分よりすぐれた人について語っている。

前者は見た目について、後者は性格について。

 

容姿は変えられないから言及してはいけない。

性格は変えられるから言及してもいい。

そういうことなのかなぁと思います。

 

ただ、差別について調べていると面白い論文を見つけました。

<論文>外見問題に関する主体化の困難について : 男性型脱毛症とユニークフェイスの事例を参照して

流し読みしたので全部は読んでいないです。

 

差別だと主張しても、性格の問題にされてしまうと書かれています。

設問ではなく自由記述の調査では、

誰がカツラをかぶっているかを当てる番組に抗議するときも

白血病などの病気の人を例に出して抗議したと書かれています。

自分は健康だから、抗議しても取り扱ってもらえないのだそうです。

 

1000文字書けないと最初に書きましたが、ここまでで1000文字になりました。

今回は結論は出てません。

そもそも何が問題なのかも分かっていません。

ただ、何か胸につっかかるのを感じます。

今一度、差別について考えたいと思います。

 

関連過去記事

差別をするとこうなります。

差別について

 

差別についての過去記事を読んでいると、日本にある差別の中に

ハゲについて書いていなかった。

僕はハゲています。

髪が薄いことでずっと笑われてきました。

にも関わらず、差別の欄に入れていません。

当事者なのだから真っ先に書いても良さそうなのに。

 

なんていうか、これこそがこの問題が難しい所なんだと思います。

僕はハゲを笑う人が問題なのではなく

ハゲを笑われることを気にする自分の性格が問題なのだと思っています。

だから、差別の欄にハゲを加えなかったのだと思います。

先ほどあげた論文にも似たようなことが書かれています。

ハゲを笑うなと抗議するとなだめられたり、

可愛そうな人だと思われると。

 

もしかすると、美人は得ですねと言うことにためらいがないのは

容姿について指摘しても、指摘するほうに罪はなく

むしろそれを不快に思う方が悪いという認識があるからなのではないか。

 

僕自身が自分の性格が問題だと思っているからこそ

他人も性格の問題であると考えている。

 

しかし、この理論がまかり通ってしまえばあらゆる罵倒が可能になってしまう。

 

他人から攻撃されることは我慢して

自分から攻撃することはしない。

たしかにそれは美しい。美談になる。

しかし本当にそれでいいのだろうか。

僕はそんな人間を目指すべきなんだろうか。

 

今回はアドラー心理学を排除して考えてます。

アドラー心理学を持ち出すとすべては性格の問題に帰結してしまうからです。

 

嫌なことは嫌だと言うべきではないのだろうか。

馬鹿にされたくない、からかわれたくないという感情は間違いなのだろうか。

自らが被差別者であるとき、差別問題について考えることは

私憤か公憤か。

 

僕は抗議すべきだと思う。

他人を馬鹿にするやつを野放しにして

馬鹿にされる方が我慢しろなんておかしいと思う。

もちろん、争えば怪我をする。

だけど、このまま彼らを放っておくのが正しいとも思えない。

 

僕はスピリチュアルが好きです。

健康食品とかは疑わしいので、買いません。

哲学としての考え方は参考になると思っているので

興味があるだけです。

そこでは、まぁ自己啓発本もそうですが

自分の考え方を変えようと書かれています。

アドラー心理学もそうですね。

それはある意味正しいのです。

 

ただ、それは有害な環境にいるのにマスクを付けましょうと

アドバイスしているように聞こえます。

職場でたばこの煙が充満しているのが嫌なら

防煙マスクをしましょう、とアドバイスする。

たしかにそれで問題は解決したと思います。

煙を吸わないという問題は解決しています。

ただ、それで本当に良いのでしょうか。

 

だとしたら、なぜ今の日本は防煙マスクが普及していないのでしょうか。

たばこの煙を防ぐことが技術上難しいからなのでしょうか。

たばこの煙は健康に害を与えるから隔離されるようになったのでしょうか。

肉体に害を与えるのは問題でも、精神的に害を与えるのは問題ないのでしょうか。

 

結論は出てませんが、今回はここで終わりにします。

結局2000文字以上書いちゃった。

 

差別の現在: ヘイトスピーチのある日常から考える (平凡社新書)